lovely-mother’s blog

うちのお母さんはかなり病院嫌い。嫌いというより自分で治せると思う派。そんなお母さんが乳がんステージ3bと申告されてから5年と6ヶ月経ちました。その間食事療法や岩盤浴通い、睡眠改善など徹底して行っていたお母さんの事を書いていきたいと思います。お母さん目線、私目線、姉目線などいろいろな視点からそれぞれの想いなども一緒に書いていきたいと思います。

お母さんの姉が妹が癌と知らされた時

 

 

「ステージ3bだって」妹からの電話だった。
「ステージ…」それが癌の進行状況を表わす言葉であることは知っていた。でも3bがどの程度のことを指しているのかは知らなかった。「乳がんのステージは4までしかないみたい」「…4が末期ってこと?」「…そうみたい」

 


一瞬だけど、死がすぐ傍にあるような気持ちになった。妹から、乳がんがあるって聞いてから、多少の不安はあったにしても、それでも真逆そんなに重篤な状況にあることは微塵も想像できてはいなかった。

 

 

「大丈夫だよ!探せばきっと何かいい治療法が見つかるよ!」その時の電話では話すこと全てプラス思考で、いろんなこと、一生懸命話した。そして「ネットで何か探してみるから!」と言うと、妹も「自分でも探してみる」と言う。

 


電話を切り、直ぐにネットを開いた。そしてまずは乳がんのステージについて調べた。

 

3b…妹が言ってた3b…その現実を知った。

 


必ず治す方法を見つける!何か、いい方向に向かえるものがきっと見つかるはず!パソコンに向かい必死になって検索した。それから妹に電話して、こんなのもあるあんなのもある…もっといろいろ探してみようと話す。そしてまた、大丈夫だよというようなことを何度も繰り返しては言ってた。


妹にはあんなに強気で話してたのに、布団に入ると、「何でこんなことに…何でこんなことに…こんなことって…」涙が止まらない。

上手く表現出来ない感情。

悔しい、哀しい、憎々しい、恨めしい。

誰に対して?何に対しての感情だろう?分からない。とにかく様々な気持ちに胸が苦しく、妹のこと、妹の子ども達のこと、私達の母のこと……いろいろ考え過ぎて、怒っているのか、泣いているのか、もう頭の中がぐちゃぐちゃで一睡もできなかった。

上の娘がお母さんが癌だと知らされた時


私たちは3人家族で、とても仲がいい家族。
私が東京に上京してからは、お母さんとさらに仲良くなったと思う。
家族でありながら、友達感覚で相談することもあった。

 


年頃ながらも、東京に上京してからは妹と2年くらい2人暮らしをしていた。
大きな喧嘩もよくしたし、一方的に私が責めることもよくあった。
それでも妹は黙って、次の日には仲直りしていた。

 

お母さんはよく「出かける前に喧嘩しても、必ず仲直りしてから出かけなさい。」と言っていた。
だから、喧嘩しても出かける前にどちらかが謝るって習慣がついていた。


お互いを思いやることを教えてくれたお母さんだったからこそ、いろんな苦しい状況も家族で乗り越えることができたのだと思う。
それに楽しい事や嬉しい話しを、離れていながらも共有していた。

 

 

そんな強くて優しいお母さんと、他人思いの心が広い妹が家族にいて、私は幸せ者で、そんな家族が大好きで、ずっとそんな日が普通に続くと思っていた。

 


お母さんの病気については、妹から聞いた。
乳がんについて、ガンのステージについて全く無知な私。
妹が調べたことを説明され、頷いて聞くだけだった。


お母さんなら大丈夫だろうって心の中で思った。
でも、本当は考えちゃいけないシチュエーションも同時に頭にはよぎった。
『妹と二人になること。』
でも、お母さんにも妹にもそんなことは口に出来ず、心に中で葛藤していた。

 

お母さんから状態を聞くまでは、病院で話を聞くまでは、考えないようにしていた。
考えれば考えるだけ、悲しみに落ちる私がいたからだった。

 

この当時の私は転職活動しながら、バイトをしていた。
すごいストレスを感じていたし、そのことをお母さんにも相談していた。
恐らく、気を使ったお母さんは私には直接言わなかったのかもしれない。
数週間後に実家に帰る話をしていた。
その時にお母さんを見て、話を聞いてそれから考えようって決めた。

 

下の娘がお母さんが癌だと知らされた時

お母さんから乳がんになったことを
聞いた時、、、

 

 

その日私は漫画喫茶で彼氏と漫画を読んでいました。テーブルの上の携帯のバイブがなり見ると”お母さん”の表示が、、、

 


静かにしないといけない空間でお母さんからいつもみたいに電話が来たと思い受けて用件だけ聞いてすぐ切ろうと電話に出ました。
しかし、いつもならすぐ会話が始まるのに3秒くらい間があった後いきなり話があるんだ〜と言われた。

 

 

瞬間的に心臓の奥がドキッとなりました。
お母さんはいつもすごく明るくテンションもとても高いのですがその時は明るくはありましたがどこか元気がない声でした。

 


なんとなく良くないことが起こったことを察しながらも


「 なに ? 」


と聞いた。
そこで明るめの声で「お母さん乳がんのステージ3bっていうのになって大丈夫なんだけど一応報告、」
定かではないがそんな言い方だった気がする。

 

病気のことなんて詳しくないのでその場は
癌 っていうので頭がいっぱいになった。

とりあえず平常心、平常心と言い聞かせその後は「大丈夫なの?」など少し会話をして電話は終わった。

 

お母さんは自力で治せるよ〜と言っていました。いつも“病は気から”といって熱があるときもどんなときも休まず働き続ける母なのであの時も本当にそういう気持ちだったのかなと思います。

 


電話を切ってからは漫画の続きを忘れて携帯で乳がんについてとりあえず沢山調べました。調べれば調べるほど死亡率、生存率ばかり目に入り死ということをとても身近に感じた。

不安で不安でそれが伝わったのか一緒にいた彼に「どうした?」と聞かれ話をしたのを覚えてます。

 

生きるか死ぬかと言われた日

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病院では、先生の話しをただ聞くだけで終わった、

生きるか死ぬって言われた言葉だけが頭の中に残って
何もいうことができない、

涙が出るでもなく淡々と話を聞いた自分にびっくりした。


家までの帰り道が、いつもの時間よりすごく長く感じて、

ありえないほどに、色んなことを考えてた
起こり得ないこと。つまり、起こり得てほしくないこと。


そんな最悪のシチュエーションが頭を駆け巡り

、ただアクセルを踏んで帰り慣れた道を進んだ。

自分に今、何が起きているのか。


病院で先生の話を聞いている時の自分は淡々としてたのに。。。
帰り道は考えすぎて、心が弱くなっていることに気づいた。

 

2月のまだ冷たい空気が、私にはとても冷たくて、

心だけでなく体のエネルギーまでも奪っていった

 

 

家に着いた私は、

もう強がりのいつもの私ではなかった。
結果を伝えたら、みんなが悲しむことは分かってた。
でも自分の中だけで解決できる問題じゃないこと、

誰かに言わないと自分が悲しみに押しつぶされてしまいそうだったこと

 

 

そして一番近くにいる、

私の大切なお母さんに打ち明けた
乳がんのステージ3bで、すぐに手術が必要だって言われたことを。

もうすぐ80歳になるお母さんが泣いていた
『ごめんね。ごめんなさい。』ってそんなことを泣いているお母さんに思ってた。

大切な私のお姉ちゃんにも、この話しをした。


でもどんな風に打ち明けて、お姉ちゃんがどんな反応をしたのか覚えてない。

この頃の私には、すべてが大切な一瞬一瞬で、

すべてを記憶したいと強く思っていた。
しかし、心のどこかで病気に対する不安が勝り、

大切な記憶をその不安は消してしまったのだった。

 

楽しい記憶を、悔いのない人生を

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ついに病院の日

 

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病院から連絡が来なきゃいいな〜って毎日を過ごしてた日々。

 

この頃は、よく東京にいる子供たちと連絡してた。
マンションの窓から雨漏りして、布団が濡れちゃった〜。とか、
学校の話とか、バイトの話とか、
色んな話を聞いて毎日が楽しそうで、それだけで心が癒されていた

 

私は夜はヨガで体を動かして!
金曜は本業の後にバイト。
日曜はお出かけしたり、ネイルしてお洒落して買い物してと、

すっごい楽しんでたな〜。
そして、切り絵を買ってきて、夜の暇な時間に、切り絵してた。

 

 


2012年2月25日(土)


子供たちとも電話で話して、毎日2人とも楽しそう!!
声聞くと嬉しくなるし。
結局、病院からも連絡がなく28日(火)を待つだけだった
そして、この頃には切り絵も完成!

 


2012年2月28日(火)

 

 検査の結果を聞きに病院へ


電話が来なかったから、

全くの平常心で人間観察するほどの余裕。

名前が呼ばれ、私の順番が来た。
先生からは突然「一人で来たんですか?」
私はただ「はい。」とだけ答えて、

心の中で『そりゃそうでしょ〜。連絡来なかったんだもん。』って思った。

 

 

前触れもなく、先生は結果から私に告げたのだった
先生「結果から申しますと、

進行性悪性浸潤癌ステージ3のBです。」

私「えっ???」
私の頭の中では、ステージ3のBという言葉だけが、

リピートされ響き続けた、、、

先生「直ぐに手術が必要です。手術のための検査をしていきます。」


顔色変えずに、マニュアルにそった会話をされてた。

 

私「子供たちを育てていかないといけないので、

ちょっと考える時間が必要です
仕事だってしないと生活していけないし、

仕送りだってしないとだめなので!」と強く言い切った。

 

 

先生「生きるか死ぬかなのに、仕事なんて言ってられないでしょう」


そしてその日に手術日まで決めさせられた、、、
先生「ちょうど、3月に東北大学病院?から先生が着るので、

3月19日に手術の予定にします。」
(そんな名前の病院を言ってたな〜。)

もう話はそこまで言われた。
一人で聞いて一人で決めさせられて、

色んなことを考えさせられた。
病院では、意志の強い私でも「はい。」しか言えない状態だった。


その後、先生は「家族に相談しないで決めていいんですか?」

って質問してきた。
心の中では『はぁ〜』と大きなため息が。
ふと気づいたときには、手術日も決められて

病院の言いなりになってる自分がいた。

先生「寝れないと思うので睡眠薬を出しますか?」
私「いらないです。

 

 

 

 

『そんなのいらないよ。寝れないわけないでしょ。寝れるよ。』って心の中で思った。

正式な検査までの日々

 

 

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シコリがあると言われてからの生活は、

 

もともと体に良いと始めたヨガにも通い続け、

本業終わってからのバイトも楽しくて続けてた。

何か気晴らしになるような事を始めようと、

地域活動の手伝い始めてみた。

 

 

 


きっと、こうやって忙しい方がいいような気がして
もともと体を動かすことが好きだし、

暇よりは忙しい方があっという間に時間が過ぎるからって。

 


何かをしてる時は考えなくて済むし、

毎日忙しくても、楽しく生活してた。
でも、ふとした時に気になって、右胸に手をやると、

そこには確かにシコリがあるのを感じた。

実際の大きさは分からないけど、

その頃は1センチくらいに感じていて、気になるし邪魔だな〜って思ってた。

 

 

そんな気晴らしをしていたからか、1週間はあっという間に過ぎた。
そして、病院へ行く日が来た

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2012年2月14日


病院は嫌いだった
雰囲気やニオイ、みんなが寂しそうにしていて、

自分のエネルギーを奪われる気がするから。


明るい自分には不似合いだ!って思いながら、

1人で病院の椅子に座ってた。

 

 

順番待ちをしていた時、

「何しにきたの?(病院にいるなんて珍しいね)」

って驚いたような顔で友達に声をかけられた。

 

 

岩手の某病院には乳腺科という専門科がなく、

外科で診察をしてもらうため、友達にはバレずに上手く話をごまかした
大ごとにしたくなかったので、バレたくないって思って隠した。

 

その友達も胸にシコリがあって、

今日は検査の結果を聞きに来たとのことだった。
その結果は悪性ではなかった。

でも、笑いながら

「悪性じゃなかったけど、今度手術して取ってもらうことにした」って。
私は、どうしてなんでもないのに取るんだろうって思った!

 


そして、私の順番が来た
部屋に入って、先生がいろいろ説明してくれたけど、

今ではどんな話をされたのかよく覚えてない。


少し胸の所を切って、細胞を取って・・・


すごいことをされるんだって、恐怖を感じたことだけは覚えてる。

そして、違う部屋に行きバンバンと鉄砲のような音がする機械で、

シコリの細胞を取ったみたいだった。
ただ怖かったぁ〜。

 


2週間後の2月28日に検査結果を伝えるので来てください。
でも、もしなんかあった時は、直ぐに電話をしますから!
電話がなければ予約日に来てくださいねと言われた。

 


その日の日記には、

気持ちだけでもにこにこしてよう」って書いていた。
そうです友達みたいに悪性でないって事もあるからね😃

この日は食事療法なんていいながらも

やっぱり美味しいものを食べに行っちゃった。

そして子供達に電話してら2人で毎日楽しそうで聞いでるだけで

私まで楽しくなってた。

シコリがあると知った日

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お母さん本人の話。

 

 

2012年2月6日


健康に自信がある私が何十年かぶりに人間ドックに行った。
マンモ検査では特に悪いところは見つからず、
次に受けたエコー検査で・・・

 


ん?右胸の所に、

 

触ってみてください

 

 

 

って言われて、確かにシコリを感じた。

自分的には1センチくらいに感じたかな。
とにかく紹介状を直ぐに出すので、病院に行って見てもらってください。

って言われた。

 

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その帰り道

なんでもないよなっ、帰ったら美味しいものが食べたい

元気になれるように


そんな風に無理やり考えながら、
でも本当は違ういろんな事を考えてた。
その日の検査結果は誰にも言えなかった

 

2012年2月7日

 


私のお母さんに人間ドックに行って検査した話をした。
やっぱり心配させてしまったみたいだった。


自分で食事で治せるようにって、

元気に頑張るって決めた!

 


少しでも体にいいことをって、
病院に行く前から食事に気をつけることにした。

岩手の某病院の予約が取れた。
予約日は忘れもしない2月14日(バレンタインデー)

 

 

2012年2月8日


この日のお母さんが優しく感じた。

普段と同じだったかもしれないけど、優しさを強く感じるくらい。
私が弱くなっていたのかも。
お母さんが体に良いよって野菜ジューススムージーを作ってきてくれたのを

覚えてる。

 

 

私には2人の娘がいて2人で暮らしていた。
同じ頃、遠く離れた東京にいる下の娘はインフルエンザに。
お姉ちゃんもうつったのか体調崩した連絡があった。

私は検査結果を娘たちには伝えられず、ただ子供達を元気にしてあげようって、
子供たちに果物を送った。

 

この時の日記に、「

私が看病に行けたら良いのにごめんね。
なんか1日寂しい日だった。
一人は寂しいよ。」


って書いてあった。

 

 

私には姉がいます。
その頃姉は私をこんな風に見てたと話してました。
本業プラス、夜は飲食店でバイト

 

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お母さんは人間ドックの結果を気にして心配もあり不機嫌になる。
その後飲食店は辞め、お母さんに内緒で居酒屋でバイトを続けていた。

「大丈夫なの?そんなにして、身体に無理がくるんじゃないの?

身体壊しちゃったら、もともこもないよ。」
「これで結構楽しいんだよ。」と言う。

もともと丈夫で体力もあり、

病気とは無縁な人だったから。

ドッグが終わっての電話で、しこりのことを聞いたとき

「まさか!まさか!こんな形で来たか!?」と思った。

 

「検査してみないことには分かんないだろうから。

心配しても仕方ないよ。」と言いながらも、

内心はまさかこんなことって!

なんてこった!っと思っていた。